そして自動的というよりも本能がウォーキングをするように指示します。
今回は別の道を歩いていると、高校生の集団と遭遇しました。
会場が近いので、おそらく何かのイベントなのでしょう。
交差点に並ぶのは迷惑と判断したようで、こっそりとローソンに入ってしまう人もいました。
よくそういったことは考えますが、彼らからしたら見知らぬ高齢者なのでしょう。
見向きもされるもなく、ひとつの背景として存在しています。
厚手の服のため、少しくらいは目立っていたかも知れません。
けれども周囲に見渡すようなことは無く、むしろ関わっている余裕はなさそうです。
勝手にあふれる液体をどうするか気にしているようで、スプレーなどの対策を持っているのでしょう。
運動の後など昔はよく見られた光景ですが、抑えるほうなのかそれとも隠すものなのかは、今になっても不明です。
これを日課として続けているそれが人間にとってはあたりまえなのでしょう。
しかしながら一切の用意もしなかった場合は、とても大変なことになります。
必要ないので落とすためにやっていることが逆になっていることがありました。
どうも複数あったほうがよいと思われているらしく、慌てて準備したのです。
想定もしていないような誤解を回避するためにも、こういったことが大切なのかもしれません。
全盛期の活気があったころに比べると、現在では廃れてしまっています。
地域的に限定されているそれを知る (2014-04-09 23:08)
近くの公園でウォーキング (2013-09-13 03:00)